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テレビが伝える「非日常」

いま東京では都知事選挙たけなわである。
電車に乗るとたくさんの乗客がスマホに向かっている。
若者が座席に座り、高齢者が立っている。
疲れきった様子の若者がそこにいる。
いまから30年前、電車にはサラリーマンがビジネスの話題で盛り上がるシーンが各所にあり、そこには笑顔があった。

だがいまの電車内には、そういう笑顔がない。
希望や盛り上がる先行きがないのだ。
そうして帰宅し、テレビのスイッチを入れると、そこには笑いに溢れる番組という「非日常」がある。
電車内で若者が疲労で寝込んでいても、国会前で巨大なデモが盛り上がっていても、テレビはその日常の本質を伝えず、あたかも上手く回っているかのように電波を流す。
稚拙でコストがかかっていない番組といま旬の俳優を起用した豪華なCMが特徴だ。

新聞は、権力批判をやめてしまい、単なる広報の役割を果たそうと現実逃避する。
広告はどっさり載っている。
戦前、新聞は大本営の一部と化し、その虚構の戦果を報じていた。
権力をチェックするという本来のジャーナリズムの役割を放棄し、権力に迎合してしまうのが日本メデイアの真相だということがわかる。
いま彼らが懸命に取材する都知事選挙の収録は、おそらく「都知事選を振り返る」などの選挙後検証番組の素材としかならない。

もはや新聞やテレビに期待するものはなにもないとの確信に至った。






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